Kanadead or alive

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Dead or Alive

久しぶりに実家に帰った。

今回は、『幼なじみが子供を産んだので会いに帰る』という理由だった。
私は理由がなければ実家には帰らない。
おうち大好きだから。

が、木曜日。
仲が良かった友人の訃報が入る。
信じられずに東京の親友と電話なんぞしていたらお通夜お葬式の日程の連絡が来て、喪服と心の準備をし始めた。

生と死。
人間誰もが直面するこの二つは、両極端だけど似ているなと思った。

仕事明け、日曜日の始発で東京に向かいそのまま町田の実家へ帰る予定だったがデパートに寄りたかったので品川で降りて新宿へ向かった。
実家から町田までまた電車乗ったりなんだりしなきゃいけなかったので面倒だったから…とか言ってたけど、本当は新宿の仲間達に会わずにお通夜に向かうのが嫌だった。
彼が亡くなったからといって一人で離れた大阪で飲む気にもなれなかったし、親友に電話をしたものの他の人に電話をかけまくる気にもなれなかった。
親友に一番に連絡したのも、亡くなった彼と親友は幼なじみの様に付き合いが長かったので少し心配だったからで、なんだか自分の中の色んな物が消化出来ずに数日を過ごした。
皆の顔を見て、彼が好きだった寅さんをみて、少しだけ消化出来た気がした。
当日誰の顔を見ても大丈夫だろうなと思えた。

亡くなった彼は正直言うといつ亡くなってもおかしくなかったし、半分位は自業自得な部分もあったし、皆の忠告を何年も聞かなかった馬鹿野郎だ。

そんな馬鹿野郎に献杯をしながらわたしは幼なじみの家へ大遅刻をして行った。

幼馴染の子供は、もう産まれた瞬間の写真でそういう感想を述べていたのだが、彼女そっくりだった。
まだ産まれて20日。ぐずぐずしてたけどもう頭の毛もフサフサでこの世の物とは思えない程可愛かった。
近所に住んでいたら、きっとダメ人間になるまで甘やかしてしまう。遠方に住んでてよかった。
彼女がお腹が大きい時間を見ていないので、彼女から産まれたってのが本当に信じられなかった。
ランドセルを背負ってた頃から知っている人物が、自分にそっくりな赤ちゃんを抱いているのだ。
なんだか頭が痛くなる。
あげたお祝い(木のおもちゃ)を母親である彼女の方が喜んで遊んでいるのをみて、更に信じられなかった。
会話をしていれば小学生の時とさほど変わらず、でも母親になった彼女は一抜けした様なオーラも出ていて凄く不思議な物だった。

夢ばかり追いかけて結婚も出産もまだ先であろうわたしは、これをまだ暫く体感しなければならない。
嫌な物ではないが、心地のいい物でもない。自分が出来ない事をしている人に対して嫉妬するのは私の悪いところだ。
これまた今回久しぶりに会った友人も父親になっていたのだが(これまた褒め言葉だが、気持ち悪い程似ていた)、『「お前も母親になればわかる」以外の言葉がないんだ』と言われた。
私にもいつかわかるときが来るだろう。

自分はまだ、自分の想像しているよりも何倍も生と死に直面しなければならない。
友人の死、祖父母の死、同級生の出産、兄弟の出産、両親の死。
友人に関しては、自分は周りよりも半分位若いので、沢山向き合わなければならない。
実際今回は、とびきり思い出がある友人がたまたま早くに亡くなっただけで、友人の死と言う物にはもう何度も向き合っている。

どちらも逃げる事が出来ないことだ。
でも、どちらも似ている。
産まれて来た物も、死んでしまった者も、どちらも一生懸命で、どちらもこれからがあるんだ。
産まれて来た者には自分自身のこれから、死んでしまった者には、その人が居ない日々というこれから。
どう表していいのかわからないが、どちらも似ている。
増えているのと減っているのが同じなわけがないが、似ている。
人間って面白いもんだ。

どちらも涙が出て来るが、どちらも違う涙だ。
大人になればなるほど、増えていく涙。

大人になるという事は、楽しくて、寂しくて、嬉しくて、切なくて、寂しくて、とってもつらい事だなと思う。