Kanadead or alive

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太陽の塔

太陽の塔の内部が一般公開されたので、行ってきた。数ヶ月前から予約をとって、たまたまいいタイミングでとれてかなり楽しみにしていた。

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太陽の塔

 

関西に引っ越してきてもう何年も経つのに大阪のシンボルでもある太陽の塔を実は近くで見たことがなかった。車で通ったり、ショッピングモールから見たり。岡本太郎の作品って日本全国どこにでもあるのでわざわざ見に行くって事もなかなかない。
(生田の記念館は1回は行った方がいいって皆に言われるので次に帰った時にでもぜひ行きたい。)本人の言う通り芸術はとても身近な物だと日本で一番教えてくれている芸術家だと思う。芸術というものは芸術家が勝手にハードルを上げているだけでそんな高貴な物ではない。誰にでもどこにでも手に届く存在であるべきだと思う。
岡本太郎の作品はわざわざ見に行くものではない。気付いたらあるものだ。
そう思っていたけど、ミーハーな私は中に入りたいという好奇心を抑えられなかったので予約をとった。

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太陽の塔

 

私は、太陽の塔が怖い。
そして塔はいつ見ても若々しい。27歳の私にとって万博なんて歴史の教科書に載る位昔の出来事なのに、あの若々しい塔が怖く見えるのだ。
ここ数年、一番上の顔の目が光るようになった。なおさら怖い。夜見ると本当怖い。

大体岡本太郎の作品は殆ど怖い。明日の神話はテーマもテーマなので怖いしエピソードもなかなかミステリー。日本橋の時計だって怖いし、あの表参道だったか青山だったかにあるやつだって怖い。絵だって、色が怖いのかなんだかわからないけどとにかく怖い。一体私は岡本太郎になんのトラウマがあるんだって位怖い。

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今回もワクワクしながら中に入ったけど、入った瞬間現在行方不明の第4の顔の復元に出迎えられて怖い。祈りというコンセプトなのだけど「その顔で祈らないで欲しい」と逆に祈りたくなるほど怖い。ただの丸い目なのにあの全てを見透かした様な顔が怖い。

そしていよいよ、生命の樹

上へ上へと伸びるその樹は、展示が終わってから時間がずっと止まっていた樹は、生き生きと伸びて生命の進化を語っていた。
恐ろしいパワーだった。
太陽が創り出す全ての命をたった一本で表す生命の樹は物凄く恐ろしい作品だった。
これを万博に来た人々が見て何を思ったのだろうか、凄く心配になった。
後から入った子供が泣いていた。両親はバツが悪そうだったが、なにも迷惑なんかじゃない。私も小さかったら多分泣いていた。

万博というものは、未来に希望を託す会だ。技術の進歩を喜び、披露する会だ。
その万博に生命の進化をアメーバから見させられるのだ。

生命の樹には、巨大な生物や巨大なアメーバが沢山いる。
類人猿と人間が太陽にほど近い場所、頂上付近にいるのだけど人間の置物は他の動物と比べ物にならないくらい小さく作られていた。パースの問題とかそういう感じじゃなくて本当に小さかった。
結局の所、こんなにすごい塔の頂点に立っている人間は、自然の全てに比べたらちっぽけなものなのだと言っているようだった。

生命の樹を見終わったあと、出口への順路での解説に私が岡本太郎へ抱く恐怖の正体が書いてあった。

『芸術は呪術だ』

腑に落ちた。全てがこの言葉で片付いた。
全ての作品から出るこのおどろおどろしいパワーと恐怖の正体は、全て彼による呪術だった。私は彼の呪術にまんまと引っかかった1人だった。彼の作品は彼の呪術だった。
私の中にはたまたま「恐怖」という形で入ってきただけで、他の人には違う方法で入ってきているのだろう。

岡本太郎民俗学を学んでいたとある。
民を支える・まとめる一番の物は宗教だと私は思う。宗教には大なり小なりシンボルが必要だ。
宗教と言うものは、別に神だの仏だのって話だけではない。日本にはあまり宗教心がないと言われているが、シンボルは沢山あるし信仰もたくさんある。
それは政治家だったり、歴史上の人物だったり、恩師だったり、会社の尊敬する上司だったり、母親・父親だったり、おばあちゃんの言いつけだったり。小さいが人々が信仰している物はたくさんある。
岡本太郎は多分、パブリックな作品をたくさん作り、民のシンボルを作ることを目指したのではないかと思った。
実際万博のシンボルとして有るまじき太陽の塔は、人々のシンボルとなった。
50年近くたった今も若々しくそこにそびえ立つ。「万博のシンボル」として生まれた塔は、今でも同じ場所でシンボルとしての役目を果たしている。
でも決して彼は教祖になりたかったわけではないのだろう。信仰の中心となりたかったわけではないだろう。信仰もシンボルももっと身近なものであるわけで、その中の一つに自分の作品があればよかったのだろう。

太陽の塔なんてこんな事が無ければ絶対見に行かなかったので行けてよかった。
いろんな事を考えるきっかけになった。

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太陽の塔を見つめる家人


家人は「万博で撮った写真が家にあるけど、小さい頃過ぎて行ったことは覚えていない」と言っていた。
普段は年の割には若すぎてびっくりするが、「万博行った」って言われるとすごいオッサンに感じる。いや、紛れもなくオッサンだな。